小山内美江子の息子は俳優の利重剛。義理の娘は有名バンドのミュージシャン!

2024年5月2日にNHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」や人気ドラマ「3年B組金八先生」などの脚本を手がけた小山内美江子さんが老衰のため94歳で亡くなりました。

1962年、NHKのドラマで脚本家としてデビューし、以後テレビドラマの脚本を数多く手がけました。

なかでも、原作&脚本を手がけたドラマ「3年B組金八先生」は、1979年の放送開始から30年以上にわたって続く人気シリーズとなり、小山内美江子さんの代表作とも言える作品です。

小山内美江子さんの逝去に際しては、金八先生に出演した多くの俳優陣からお悔やみのコメントが出されいましたね。

長年に渡り、第一線で活躍された小山内美江子さんですが、プライベートではシングルマザーとして息子さんを育て上げられました。

今でこそシングルマザーは市民権を得ていますが、小山内美江子さんがまだ20代、30代くらいの頃は、1人で育てて、仕事をしていくことは相当に大変であったと思われます。

その息子さんは俳優の利重剛さんです。

今回は小山内美江子さんの経歴や息子である利重剛さん、その妻(嫁)について調べてみました。

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小山内美江子のプロフィール

まずは、小山内美江子さんについて詳しくまとめてみました。

小山内美江子の経歴まとめ

鶴見高等女学校(現:鶴見大付属高校)卒業後の1951年、映画スクリプター(記録係)となりました。

元々は映画監督を志望していましたが、当時は“女性では監督は無理だ”と言われ泣く泣く夢を断念せざるを得なかった為、せめて撮影現場で監督の隣にいられるスクリプターという職を選んだそうです。

このスクリプターという職を通して、映像作品の基本を学び、男性社会の世界でも物怖じせずにハッキリものを言う姿勢を身に着けたそうです。

映画のスクリプター(記録係)とは、監督の脇で、シーンのつながりや秒数をチェックする仕事です。

結婚、妊娠、長男出産の後に、1962年に脚本家としてデビューしました。

脚本家デビューした同年7月31日には、長男の利重剛さんを無事に出産しましたが、それを区切りとして離婚し、シングルマザーとなります。

1979年から始まった「3年B組金八先生」シリーズは、中学生の妊娠や校内暴力などの問題をリアルに描き、大きな話題となり、小山内美江子さんの名が広く知られるきっかけになった作品でもあります。他に、NHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」や連続テレビ小説「マー姉ちゃん」「本日も晴天なり」など、名作を多く手がけました。

Tomoちん
Tomoちん

連続テレビ小説「マー姉ちゃん」では漫画「サザエさん」の作者である長谷川町子さんの姉を主人公にしたストーリーで、主演は熊谷真実さんが務めました。

Tomoちん
Tomoちん

連続テレビ小説「本日も晴天なり」では、元NHKアナウンサーで作家である近藤富枝の半生がモデルで、主演は原日出子さんが務めました。

脚本家として活動する一方で、60歳の時にヨルダンで湾岸戦争の難民救援活動を行ったことをきっかけに海外でのボランティア活動を本格的に始めました。

1993年には自身が代表を務めるNPO法人を立ち上げ、私財を投じ、カンボジアなどの国々で学校を建設する活動を長年続け、国際協力活動を続けました。

晩年は病気とケガとの闘いでもありました。

闘病歴

2014年:心臓大動脈弁の手術
2018年:心不全で緊急入院
2019年3月:慢性硬膜下血腫を患い、ドリルで頭蓋骨に穴をあける
2019年4月:血液の薬の副作用で再発し手術
2019年5月:ペースメーカーの入れ替え手術
2019年6月:心不全の初期症状である浮腫が出始め再入院
2019年7月:転倒により背中を圧迫骨折。自宅療養。
2019年10月:再び転倒。大腿骨頸部を骨折したため入院。ボルトを埋め込む手術を受ける

病気や怪我と闘い、コロナ禍も乗り越え、老衰による逝去でしたので…きっと天命を全うされたのでしょう。

息子の利重剛さんの発表によると…

老衰による穏やかな逝去でした。やりたいことをやり、言いたいことを言い、多くの人々に愛された、幸せな人生だったと思います。生前のご厚情を深く感謝いたします。本当にありがとうございました。

利重剛HP

と報告されていたので、穏やかな最期であったようです。

小山内 美江子
本名笹平 美江子
誕生日1930年1月8日
出身地神奈川県横浜市鶴見区
死没日2024年5月2日(94歳没)
主な作品
テレビドラマ『マー姉ちゃん』
『3年B組金八先生』シリーズ
『徳川家康』
『翔ぶが如く』
受賞
1995年 日本女性放送者懇談会賞

小山内美江子の代表作「3年B組金八先生」の降板劇

1979年に放送開始した武田鉄矢さん主演の学園ドラマ「3年B組金八先生」

1979年〜2011年まで、なんと32年間にわたり放送されました!全8シリーズに加えて12回のスペシャルを合わせて、全185話の構成です。

中学校を舞台にしたドラマでは、「いじめ」「中学生の妊娠」「性同一性障害」など、その時代を反映したテーマを取り入れ、時にセンセーショナルなストーリーが話題になるなど、幅広い世代で支持されました。

しかし、代表作である「3年B組金八先生」の脚本を第7シリーズ半ばで降板されます。

降板の理由は?

テレビ局との意見相違があった

テレビ局側は体調不良と発表したが、後に本人は作品内容に意見の食い違いがあったことを明かしています。

教育現場の「現実」を映すことにこだわった小山内美江子さんは、企画書にあった中学生の薬物使用の描写などを「非現実的」と受け入れられなかったのです。

生徒が覚醒剤に手を出したり、高層マンションから飛び降り自殺を図ったり、衝撃的な展開が連続する第7シリーズ(2004年)。

生みの親である脚本家の小山内美江子さんとしては、この過激路線は本意でなかったようで、著書『さようなら私の金八先生―25年目の卒業』(講談社)によると、生徒が覚醒剤を使用する展開には最後まで反対していたと言います。

制作スタッフとの確執の末、第10話をもって、ほぼ更迭状態で降板しました。

Tomoちん
Tomoちん

脚本家として、ご自分の信念があったのですね。

小山内美江子の息子は利重剛!義理の娘は?

小山内美江子さんには息子さんが1人います。

息子さんやその妻(嫁)についてまとめてみました。

利重剛のプロフィール

高校時代、小山内美江子さんが『3年B組金八先生』の脚本を執筆することになり、自身の友人たちを集めて話し合いの場を作り、実際の10代の率直な意見として数々の助言をしたそうです。

こうしたことも影響を与えたのか…、1981年、19歳の時に自主制作映画「教訓Ⅰ」が、ぴあフィルムフェスティバルに入選。同年、『近頃なぜかチャールストン』のプロットを岡本喜八に持ち込み、映画化され、主演・共同脚本・助監督を務めました。

1996年、映画「BeRLin」で日本映画監督協会新人賞受賞。

以降、俳優としても活躍し、ドラマ、映画など出演本数は多数に上ります。

プライベートでは結婚は2回しており、現在の奥様との間に1児を設けています。

りじゅう ごう
利重 剛
本名笹平 剛
生年月日1962年7月31日(61歳)
出生地 神奈川県横浜市鶴見区
身長178cm
職業俳優・映画監督
配偶者鷺沢萠(1990年 – 1991年)
今野登茂子(2002年 – )
著名な家族小山内美江子(母)
主な作品
テレビドラマ
『金田一少年の事件簿』〈堂本剛版〉
『やんちゃくれ』
『チーム・バチスタシリーズ』
『ATARU』
『silent』

利重剛の最初の妻(嫁)は小説家の鷺沢萠

利重剛さんの最初の妻(嫁)は小説家の鷺沢萠さんです。

1990年に結婚し、1991年に離婚しているので、結婚期間は1年間ととても短い結婚生活だったようです。

演劇が大好きだった鷺沢萌さんは、多才な才能を見せて活躍している利重剛さんと、演劇論や芸術論などを楽しみながら語り合っていたのでしょうか。

しかし、夫婦としては上手く行かず、スピード破局してしまいました。

利重剛さんと離婚後、2004年4月11日、鷺沢萌さんは自宅で亡くなり、遺体が発見されたときの状況から縊死であると断定されました。

お酒もタバコも大好きで豪快な女性のイメージがありますが、人知れず強迫性障害を患っていたようです。自分を心から理解し、支えてくれる人が不在だったことは、鷺沢萌さんにとって最大の不幸だったのではないでしょうか。

利重剛の再婚相手はプリンセス・プリンセスの今野登茂子

利重剛さんはプリンセス プリンセスのキーボード今野登茂子さんと2002年に再婚しました。

お互いに再婚同士でした。

お2人は、1999年にNHK-BS2にて生中継された「中国敦煌シルクロードの旅」で共演したことで出会いました。

かなり過酷な状況下での生中継を共にしたそうで、その時に利重剛さんは今野登茂子さんのことを「いいやつだな」という好印象を持ち、交際に発展したそうです。

2001年には、利重剛さんが監督を務めた映画「クロエ」で、今野登茂子さんが楽曲提供されていています。

まとめ

今回は小山内美江子さんの経歴や息子である利重剛さん、その妻(嫁)について調べてみました。

小山内美江子さんの1人息子である俳優兼映画監督の利重剛さん。

利重剛さんの最初の妻は小説家の鷺沢萠さん、再婚相手はプリンセスプリンセスのキーボード奏者の今野登茂子さんです。

94歳で逝去した小山内美江子さんは数多くの名作に携わり、それらの作品は後世に残したいものばかりです。この功績に感謝しつつ、ご冥福をお祈りしたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。