2024年7月3日、20年ぶりに発行された新紙幣。
新1万円札は福澤諭吉から渋沢栄一(しぶさわえいいち)に、5千円札は樋口一葉から津田梅子(つだうめこ)、1000円札は野口英世から北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)へと変更されました。
皆さん、もう新札は手にされたり、目にされましたか?
新1万円札の肖像に採用された渋沢栄一は、2021年に大河ドラマ「青天を衝け」で主人公に描かれています。
「日本資本主義の父」と称され財界で活躍した偉人で知られていますが、実は…超のつく女好きとして有名なのです。妻の他に妾(めかけ)や愛人が多くいたそうです!
認知しなかった子を含めると100人ほど子どもがいた……という“豪傑伝説”の持ち主でもあります。
『明眸皓歯(めいぼうこうし)に関することを除いては、俯仰天地(ふぎょうてんち)に恥じることはない』
と言っており、これは「美女(美しく澄んだ目もとと、白く美しい歯並びのさま)に関することを除いては、心にやましいところがないので、恥じることは何一つない、美女には勝てない。」という意味で、女性が好き過ぎて女性の美しさには勝てないということです。
これだけの功績を残し、なかなか紙幣の肖像画に採用されなかった要因はこうした女好きではないかとさえ言われているのです。
今回は渋沢栄一の子供の数や家族史について、さらには女好きエピソードについてまとめてみました。
渋沢栄一の子供の数は100人以上?
渋沢栄一は財界でとても活躍した偉人で、素晴らしい功績を残していますが、その一方で、私生活では…尋常ではない女好きであり、艶福家(えんぷくか)としても有名です。
妻だった2人の女性との間には7人の子供がいましたが、たくさんの妾や愛人もいて、彼女たちとの間に生まれた子供は30人?とも50人?とも100人?!言われています。
分かっているだけで、正妻と妾の子供で、合わせて14人の子供がいたことがわかっています。
子供が多すぎて、渋沢栄一本人も正式な子供の人数は把握していなかったのかもしれませんね…。
ちなみに最後の子供は渋沢栄一が68歳の時で、愛人との子です。
正妻の他に妾、愛人を持つことは現代では考えられないことですが、当時は珍しいことではなかったようです。
現代であったなら、文春砲の格好のターゲットになっていたに違いありませんね。
子供の数もすごいのですが、さらに驚いたことに、妻と暮らす家に妾も住まわせ、一緒に暮らしていたそうです。
同じ家に妻と妾が住む妻妾同衾(さいしょうどうきん)。当時は「妾を囲う」ということは、商家の風習だったようです。
2人の妻(千代と兼子)の間に6男4女が誕生
1858年、渋沢栄一は18歳の時に、従姉妹の千代と結婚します。
千代との間に2男3女をもうけました。
コレラにより千代が亡くなると、翌1883年に15歳年下の兼子と再婚し、5男1女をもうけました。
【栄一と千代の子供】
長男:渋沢市太郎(1862~1862年)早世
長女:穂積歌子(1863~1932年)
次女:阪谷琴子(1870~1925年)
三女:渋沢糸子(1871~1871年)早世
次男:渋沢篤二(1872~1942年)
【栄一と兼子の子供】
息子:渋沢敬三郎(1883~1883?年)早世
三男:渋沢武之助(1886~1946年)
四男:渋沢正雄(1888~1942年)
四女:明石愛子(1890~1977年)
五男:渋沢秀雄(1893~1984年)
六男:渋沢忠雄(1896~1897年)早世
*子だくさんだったが10人中4人は幼くして亡くなりました。
少なくとも下記の7人が栄一の子どもだと言われている。
生前に出版された公式伝記といえる『青淵回顧録(せいえんかいころく)』では、非嫡出子の名前も堂々と記させています。
子どもたちを平等に扱い、世間に対しても平然としていた渋沢栄一は、破格の器の持ち主でもありました。
娘:尾高ふみ (1871生まれ)
娘:大川てる (1875~1927年)
息子:星野辰雄 (1892生まれ)
娘:安本つる (1897生まれ)
娘:川崎まつ (1900生まれ)
息子:長谷川重三郎(1908~1985年)
子たちは社長や頭取など要職を務めたり、政財界の大物と婚姻し、子孫たちは現在も企業の社長、役員などを務めています。
渋沢栄一の正妻は2人
渋沢栄一の最初の結婚は栄一が18歳の時、妻の千代は14歳でした。
渋沢は千代との間に2男3女をもうけます。
最初の妻“尾高千代”は渋沢栄一から溺愛されていた
尾高千代とは従姉妹で、渋沢栄一は尾高千代の兄である尾高惇忠が開いた塾に通っており、千代とは幼馴染のような関係だったようです。
渋沢栄一は京都逃亡後、千代に22通の手紙を送る
1863年に尊王攘夷思想に目覚め、高崎城襲撃や横浜焼き討ちを計画しますが、尾高長七郎に止められ未遂に終わり、その後京都へ逃亡しました。
結婚してから5年と経たないうちに別居することになりましたが、渋沢栄一は千代をとても愛していたようで、以下のような手紙を送っています。
かねてこなた心は承知の通りにて、たとえ十年が二十年とても相かわりなき赤心、ただただ憐れむべきはそなた事に候えども…。その節まではよくよく貞操御守りなされたく頼み入り候。
Fukapedia
千代の浮気や離婚を恐れて、貞操を守るようにと懇願している手紙ですね。
千代宛に22通の手紙を送っているところを見ると、よほどの愛妻家だったのでしょうね。
千代は字が上手ではなかったので返事をなかなか書かなかったようで、渋沢栄一が「たまには返事をよこさないと浮気をするぞ」という返事をしたそうです。
後妻の伊藤兼子は元豪商の娘。没落後は芸者に
千代が亡くなった翌年の1883年に渋沢栄一の後妻に伊藤兼子を迎えました。
兼子は伊藤八兵衛という豪商の娘でしたが為替取引の失敗で没落し、芸者の仕事を探している時に、渋沢栄一と出会いました。
渋沢栄一との間に5男1女をもうけます。
渋沢栄一の性豪ぶりを兼子は、「大人(たいじん)も論語とはうまいものを見つけなさった。聖書だったらてんで守れっこないものね」と言ったそうです。※大人:旦那様
聖書は姦淫(かんいん)を禁じていますが論語に“性についての戒めは書かれていない”ことを皮肉ったのですね。
妾(めかけ)の数は?
祖田浩一編『好色家艶聞事典』や佐野眞一著『渋沢家三代』によると、渋沢栄一は明治時代の花柳界で5本の指に入るスーパー遊び人だったようです。
当時は、妾がいるということは、男性として経済的に非常に豊かであるという証であり、一種のステータスのようなものでした。
女性の筆者からすると…いい気持ちはしません。
現代では考えられないことですね。
驚きしかありませんが…これが普通だったようですね。
当時の渋沢家では、嫡子、庶子合わせて20人はいたと言われていますが、正確な数は不明で、もっと多かったとも言われます。多数の妾に産ませたのでしょう。
妾の数はわかっているだけで3人います。
・大内くに:千代の生前からの妾で、妻妾同居していた
・田中久尾:大阪出身の妾で、深川福住町の自宅で同居
・鈴木かめ:元吉原仲の町林家の芸妓で、日本橋浜町の別宅に囲っていた
分かっているだけで3人なので、実際にはもっと多くの妾さんがいたと思われます。
大内くには正妻の千代と同居!
渋沢栄一は出張先の大阪で大内くにと出会い、大阪から東京に戻る時に大内くにも連れて帰ったそうです。
百歩譲って、現地で知り合って仲良くなるというのは分かりますが、“連れて帰る”というのはさすがとしか言いようがありません。
さらには、妻や子供がいる自宅に住まわせたというのですから…もう現在の感覚では到底考えられませんね。
正妻である千代が追い出しそうなものですが、大内くにと2人の娘の同居を許しています。
千代は「夫は何事にも通じて、情に厚いから女性に慕われるのでしょう」と達観していたとされますが、その本心はいかがかりだったのでしょう。
大内くにの子供は社長や頭取の嫁になっている!
渋沢栄一には妾との子である庶子はたくさんいるようですが、正式に認められているのは4人で、その内の2人が大内くにとの子で、ふみとてるです。
ふみは、渋沢栄一の正妻である千代の兄の子である尾高次郎に嫁ぎました。
尾高次郎は武州銀行(合併で元・埼玉銀行に。現・埼玉りそな銀行)の初代頭取になるなど財界で活躍しました。
ふみの嫁ぎ先が千代の親族というのも驚きですが、関係は良かったのでしょうね。
てるは富士製紙(王子製紙と合併し消滅)社長となった大川平三郎に嫁ぎました。
その後、渋沢栄一と大内くにの関係は解消されますが、渋沢家には出入りしていたようです。
田中久尾は大阪から連れて来られた!
大阪出身の田中久尾は、渋沢栄一に連れてこられ同居していました。
田中久尾も妾の1人ですが、認められた庶子はいないようです。
日刊新聞の「弊風一斑 蓄妾の実例」というコーナーに以下のように書かれています。
渋沢栄一は深川福住町四番地の自宅に大坂より連れ来りし田中久尾(ひさお)(二十八、九)という古き妾あり。
デイリー新潮
新聞にこんな紹介を行うコーナーがあるとは、驚きですね。
鈴木かめは吉原の元芸妓。その子供は第一銀行頭取の長谷川重三郎!
鈴木かめは吉原仲ノ町の林家の芸妓「小亀」としてご座席に出ていました。
日刊新聞の「弊風一斑 蓄妾の実例」にも書かれています。
日本橋浜町一丁目三番地の別宅には元(も)と吉原仲の町林家小亀こと鈴木かめ(二十四)なる妾を蓄(やしな)う
デイリー新潮
これも経済力のなせる業でしょうか。
この鈴木かめとの間には長谷川重三郎を授かっており、庶子として認められています。
驚くのは長谷川重三郎は渋沢栄一が68歳の時の子だとのことです。
当時の平均寿命は今より短いので、現代の年齢感覚だと80歳手前でしょうか。
このことについて渋沢栄一は「いや、お恥ずかしい。若気の至りで…」と話しています。
68歳で若気の至りでも何でもないような気はしますが、生涯現役ということなのでしょうか。
「すごい!」としか言いようがありません。
長谷川重三郎は渋沢栄一が創業した第一銀行(現・みずほ銀行)に入り、行内では非常に大きな影響力を持っており、頭取にまでなっています。
渋沢栄一が女好きになったのはいつから?
数々の伝説や名言を残している渋沢栄ですが、一体、彼が女好きになったのがいつからなのでしょうか。
渋沢栄一は高崎城襲撃や横浜焼き討ちを計画して頓挫した後に京都へ逃亡しますが、そんな非常事態の中でも立ち寄った場所があり、それが遊郭の“吉原”なのです。
えぇぇぇぇぇ…!!!!!!
自分の身が危ないのに、吉原を優先するあたりが尋常ではありませんよね。
京都から妻の千代に対して一途な手紙を送っていましたが、既に女好きだったことは確実でしょう。
渋沢栄一が女好きになったきっかけは?
渋沢栄一が女好きになったきっかけは何かあるのでしょうか?
調べてみましたが、これというきっかけについては分かりませんでした。
実業家として500以上の会社の立ち上げに関わった渋沢栄一ですが、仕事の頑張りの源が女性だったのでしょうか。
ただの女好きでは終わらず、尋常ならざる超女好きな渋沢栄一。
この振り切った行動力こそが、何かを成し遂げる者とそうでない者も違いなのでしょうか。
渋沢栄一の女好きエピソードが尋常でない!
渋沢栄一には、妾以外に愛人も数多くいたそうで、愛人との子の数は一説では50人とも言われているそうです。
さらに、渋沢栄一が80代になってからの愛人の子もいるそうです。
いくつになっても、どこに行っても女性には手を出していたようですね。
こちらでは渋沢栄一の女好きエピソードを3つご紹介します!まだまだザクザク出てきます(笑)
新撰組の女性に手を出した!
京都滞在中に新選組の隊士の女性に手を出して新選組と揉めています。
女性に手を出された新選組隊士は仲間を連れて渋沢家を襲撃しましたが、何とか話し合いで解決することが出来たそうです。
よく話し合いで解決できたものです。
ヨーロッパでも女性にナンパ!
渋沢栄一は海外でも女性に手を出しています。
1866年、渋沢栄一は幕臣としてヨーロッパへ渡航しヨーロッパの進んだ文明を視察する傍ら、ヨーロッパで女性に手を出しているのです。
渋沢栄一は女性に
これもなにかの縁なので、美人よ、私の元に来てください。そして両国の関係も親密なものにしましょう。ただ私は現在公務を控えているので、必ず後から日本に来てください。
それに対して女性は、
嘘もある程度までは許せますが、大嘘は人を怒らせるどころか笑ってしまいます。私が本当に海を渡ってきたら、貴男も困るでしょうから私はこの話には乗れません
と言ったそうです。
女性の返答がWitに富んでいて、軽くあしらわれてしまいましたね。
結局、この女性は日本には来なかったそうです。
海外でも変わらず美人に弱く、女好きの本領を存分に発揮していたようです。
「両国の関係を良好に…」の意味合いが間違っていますよね。
自分のことは棚に上げて…息子を廃嫡
渋沢栄一は自分の艶福ぶりを反省したのか、家訓として女遊びを戒め、芸者に近づくなと定めています。
自身は花柳界で五本の指に入る遊び人と評判を取ったにもかかわらず、どの口が言えたもんだと総攻撃に遭いそうです。
渋沢栄一の女好きの血は長男に受け継がれ、家訓を破って新橋の芸者にのめり込んでしまいました。
自分のことを棚に上げて長男を叱りつけます。
しかし、長男は聞く耳を持たず、妻を追い出して芸者を家に入れようとしたところ、渋沢栄一は激怒して長男を廃嫡してしまいます。
長男にしたら父親には言われたくないと思ったことでしょうね。
渋沢栄一が紙幣の顔になかなか選ばれなかった理由は女好き?
2004年以来20年ぶりに新紙幣のデザインが変わりました。
新しい1万円札には「日本の資本主義の父」と言われる渋沢栄一が描かれます。
紙幣を飾るのは、言うなれば「その国の顔」であり、その国を象徴する人物や風景が選ばれるものです。
しかし、渋沢栄一は本当に「日本の顔」にふさわしいのでしょうか。
500以上もの起業に携わり、実業界を引退した後は600以上の福祉や教育事業に全力投球していたという凄まじいバイタリティの持ち主です。
「企業が利益を追求するのは自然なことだが、お金儲けのベースには、常に道徳心がなくてはいけない」とする「道徳経済合一説」を唱えていました。
「会社経営の醍醐味は多くの金や権力を独り占めできる点にある!」と言って憚らなかった岩崎弥太郎とは真逆の考え方ですね。
そういう意味では1万円札の“顔”にふさわしい人物なのですが、これまで何回も候補になっては落選するのを繰り返していました。
その理由として、妾を持つことが普通の時代であったにも関わらず、その常軌を逸した華やかな女性関係を持ったことが響いていたのではないかと考えてしまいます。
渋沢栄一のバイタリティーの秘訣は
渋沢栄一は、江戸、明治、大正、昭和の4つの激動の時代を生き、91歳で生涯を終えました。
仕事だけでなく私生活でもバイタリティを発揮していた渋沢栄一には、2人の妻の間に7人の子供がいる他、妾との間にも30〜100人の子供がいたという説もあるほどです。
そんな渋沢栄一のバイタリティの源の1つに食べ物が関係ありそうです。
朝食は大好物のオートミール!
オートミールとはオーツ麦を加工したシリアル食品で、食物繊維やミネラルが豊富な栄養食品です。
渋沢栄一はスープ皿にオートミールを入れ、ミルクと砂糖を加えたものを食べていたそうです。
元祖スイーツ男子?
「甘いものは好きでよく食べる」と言っており、和菓子の老舗への注文記録も残っています。
一方で、アルコールはほとんど口にしなかったそうです。
「煮ぼうとう」が故郷の味
地元である埼玉県深谷市の名物「煮ぼうとう」をよく食べていたと言われています。
深谷ねぎや地元で収穫されたたっぷりの野菜類と、幅が約2.5センチある幅広麺を煮込んだ醤油味のうどんは、栄養も満点ですね。
コーヒーの魅力にいち早く気づいた
パリ万国博覧会へ派遣された際「すこぶる胸中を爽やかにす」と飲んだコーヒーの感想を日記に記していました。
コーヒーの魅力にいち早く気づいた日本人と言えそうです。
まとめ
今回は渋沢栄一の子供の数や家族史について、さらには女好きエピソードについてまとめてみました。
「そういう時代であった…」と一言では語り尽くせないほど、女好きであることはハッキリしました。
渋沢栄一の功績はもちろん素晴らしいです。
しかし、その功績や偉業の裏では渋沢栄一を支えた女性がたくさんいたのだなということも分かりました。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
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